魚に透かす世の中あれこれ

私が働いている足摺海底館では団体客が入館する時はエサやりをするのがお決まり。
二ヶ所の窓からロープを垂らしオキアミをカゴに入れて落とす。

エサがあるところにしか魚は集まらないから、エサカゴがあるところには魚が集中するから壮大なエサ獲り合戦がみられるが、エサカゴがない窓はスッカラカン(ベラやハリセンボンなどは見えるが)である。


あくまで私の考えだが、魚が一番よく見えるのはエサカゴのエサがなくなった後だ。

魚はエサをやってもやらなくてもある程度根付いていている(エサをもらえると知っているから)のだが、エサを落とすとそれ以外の魚もエサを食べにやってきて量が増える。
エサが無くなった直後は根付いていている魚と遠くから来た魚が入り交じり、非常に多くの魚がいる状態ができる。


エサをやった時のリアクションは二種類。
①魚が集まって楽しかった。
②魚がいなくてつまらなかった。

①はエサの前をキープできた人、②はキープできなかった人。
団体の場合は時間制約があるのでエサがなくなる前に出ざるを得ないので、こんな声が聞かれるが、ゆったりめな団体や個人では②は聞こえない。
それは私が考えるよい状態の時をゆったり観る事ができるからであろう。


この現象を見ながら考えるのは、世間に良く似ているなという事である。

経済政策や好景気でいい思いができるのは初めからその立場にいる人である。
だが、それ以外の人には恩恵はなく、むしろ苦しい状況が続く。

好景気と言われる今日の日本。
しかし、給料はうなぎ登り、家も車も買えて旅行にも毎シーズンいける。なんて家は少ない。
どこかで儲けている人がいる一方で、更に貧しくなる人もいる。


そもそも、良い生活とはいったいどんなものなのだろうか。

私たちは戦後生まれ。好景気が終わり冬の時代を得て、また昇り調子かという中で生きている。

いい大学に行っていい職につきなさい。
そんな世代の親に育てられながら、そうはなっても安月給、リストラ、倒産などで全てがパーという現実の中で迷える子羊のように何を信じればいいのか見失い、ただただ生きる為に生きる人が多い。


私たち(戦後世代)は「良い暮らし」という見えない理想を追い求めてた。いや、追わされた世代。
ゴールのないマラソン。真夜中の遠泳。そんな中で「良い暮らし」を手にいれようと必死にもがいて生きている。

着る服はがある。
飯が食える。
家がある。
衣食住が満たされていれば本当は暮らせるのだが、そこで満足すれば向上心がない。怠け者。負け組とレッテルを貼られ生き辛い世の中である。


金が偉くなりすぎて貧乏は悪になった。
金が偉くなりすぎて金が人の判断基準になった。

金はあくまで一つの道具である。
物々交換の延長戦上にできた持ち運びに便利な等価交換できるものとして生まれた副産物である。

しかし、いつの間にかそれを忘れて金に働かされ、金に食われ、金に裸にされる時代となった。


金に惑わされない。
世間に惑わされない。
そんな真の「良い暮らし」を見極める時が来ているのかもしれない。

などと答えもない問答を団体がいなくなってスッカラカンの海底で優雅に泳ぐ魚を見ながら思う。

ほいたら、また。

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